Saturday, May 31, 2008

プロフェッショナル

なにかを専門的に極めた方のことを呼ぶと思う。

そのような方の中でメディアに出る方のおはなしをテレビやインターネットへの寄稿から拝見すると、世の中全般へ通じるメッセージが多い。

専門家だから、それだけ知っていればいい、というのではなく、これを専門として生業(あるいは副的なものであったり)とし、世の中と生きている、生業の一部が世の中へ貢献されている、というのが、日本で呼ばれる「プロフェッショナル」というものなのかなぁ。
恐らく、生活そのものは、そう呼ばれていない多くの人と同じだと思う。もしかしたら、得るものも多いかもしれないが、有名税として払っているものも多いかもしれない。

恐らく、なるべくして「プロフェッショナル」になった方が多いと思う。
その方々は運がよかったんだ、などで済む話の訳はなく、たゆまない努力、謙虚さなどなどを積み重ねた結果、時代と共鳴するようなメッセージ性が何かしっかりあったのだろう。
んー、なんとなく、私の理解はまだあいまいだ。



みなさんの「プロフェショナリティ」はなんですか?

わたしは、なんだろう。あと10年くらいしたら、今をしっかり生きたら、そのとき感じることをしっかり感じ取っていったら、敷くべき道をしっかり築いたら、分かるような気がする。

Friday, May 30, 2008

ここで得た知識の行方。


声を上げてみるのは大切なのよ、最初は勇気の要ることだけどね。

というのは、私のスーパーバイザーが、修論書きをどのようにグループで進めていくかみんなで考えていたときに発した言葉。


きょう、ふっと思った。
レディングには少なかったけれど、イギリス全体で国際開発や平和構築を学ぶ日本人学生は非常に多い。どのくらいいるんだろう・・・・。

そして、彼らの得た知識、見識、人々とのネットワークはどれほどに日本の援助へ貢献しているのだろうか。有給であれ、無給であれ。
イギリスで学んだ、ということ、だけでは援助に携わる人間としての条件は満たされないけれど、せっかく時間とお金をたっぷりかけて得たものを、活かせるプラットフォーム、できないかなぁ、と思った。




なんとなく、このようなことが、最近、ぼんやりといろいろ、思い浮かぶことが多くなった。

Thursday, May 29, 2008

学生の日記っぽく。


ちょっとぶれることがあったり、クラッシュがあったり(いえいえ、これらはまぁまぁほぼ全て、研究に関わることとご理解ください)で、なかなか書き進まず、かといって、時間だけは規則正しく過ぎてくれるから、結果的に

スケジュール遅れ

が生じております。正確にいえば、2500ワード遅れ、というか。
秋学期の「参加型開発」に関するエッセーを読み返してみました。英語の質はともかく(読んでくれた先生に感謝だ)、自分の考え方が、「プロジェクトの実施者」的であることがありありと伝わる内容だった。

いろいろと文献を読み、メモにとり、マッピングして整理する作業をこの1か月してきたけれども、難しいのは、自分が本当に考えたことなのか、先人の考えたことに同調しているのか、混乱すること。
きっとまだ十分に咀嚼できていない証拠なんだろうと思う。でも、私の場合、書き始めてしばらく経つと、

つー

っと進むときがある。友人も、何でかわからないんだけど、突然文章になる、といっていた。
今はそれを待っている。


今日の見込みだと、上の遅れ分は、半分くらいに縮めてイギリスを発つことができそうだ。





といいんですがね。

Tuesday, May 27, 2008

生存力をのばす。

日経ビジネス オンライン 茂木健一郎の「超一流の仕事脳」
というコーナーにて、UNHCRウガンダ・リラ 
高嶋由美子 事務所長の言葉が掲載されていた。

政治や社会情勢の影響を受けて全てを失ったが、それゆえに見える、生命の真実(精神的な強さも含む)がある。
人と人のつながりが幸せの方程式である。

というもの。

どんな状況においても何にわずかな光を見出し、それを糧として、生きていく、仕事をしていくかが大切なのだと思う。これまでの経験上から、目先の自分自身より、私は、もう少し先を見るべきと思うたちである(だから、目先において注意散漫になって、物理的、精神的ダメージが生じることも多い)。これは学習した、というほうが正しいと思う。

目先の自分より、先の「社会」を考えながら進める人間でありたい。
まだまだひよっこだが、最近、精神的のびしろ(許容というか・・・?)が増えた。自己満足かもしれないけど、おや、前と違うかも?と感じる、自身に対する発見は大切にしたい。


そののびしろの大きさが、生命力、ならぬ、世の中における生存力(私訳:世の中で、如何に、快適に人々と仕事と人生を謳歌できるか)、なのではないかと思う。生存力があるから、仕事に付加価値が付けられる余裕があるのだと思う。付加価値、というのは、おまけ的なヨコロビ発生パワー、のこと。最初はできなくてもしょうがないけど、ある程度経ったら、そういう付加価値発生力は、大切だと思う。


開発の仕事には、待ちに耐えられる気長さ、アバウトさが必要といわれる。
つまり、生存力が大切な仕事、ナノダ。





Coors Lightを語学研修のときの友人たちと頂いて、ちょっと酔っぱらい気味です。
ちょっと甘めなビールでした。

Monday, May 26, 2008

RightとNeeds


これについての勉強会に参加した。

なかなか日々の活動の中で、Right(人権)のことを考え、取り入れるのは難しい。
どうしても、Needs(人々の生活にとって必要なもの)を中心に考えてします、無意識に。

こうかな、ああかな、と思って駒を進めている作業において、Rightの思想が十分に反映されているとは言い難い。発見をもたらしてくれた有意義な勉強会に参加できたことに感謝です。

Sunday, May 25, 2008

リーダーシップ?


とある活動において反省の多い半年でしたが、昨日でひと段落。

リーダーシップとか元々希薄だったので、そんなものはまだまだですが、みんなのおかげで生き抜いたという感じ。私の理想なリーダーは、おしつけのない人、です。リーダーシップを取らなきゃいけない環境以外では、他のお話もざっくばらんにできる、とか。決めのところでは、がし!と決められるとか。
ようは、懐の深さ?と、人や物に対する好奇心の広さですね。

でも、それは訓練もあり、生まれもった性格も関係してくることだから、自分がそのときにできそうなことを精一杯やることが大切なんだと思います。出来る限りの思いやりももって。

その思いやりという言葉も難しい。
あるところで、他人と自分は違うから、相容れないところが生じてしまうのはどうしようもないのだと思います。例えば、言語だったり、生きてきたバックグラウンドが異なってたり、宗教だったり、などなど。
違うところをどれだけ受け入れ、相手に対する尊敬の念を表現できるか、ここがこれからのポイントだな、と思います。私はそのあたりのコントロールが下手なのダ。



というわけで、しばらくは集中!
一昨日、朝4時から集中して作ってた質問票に、「プロジェクトに参加して、あなたはHappyと感じましたか」という文を入れました。なかなか面白い!と自画自賛。スーパーバイザーの反応や、如何に。

Thursday, May 22, 2008

Dynamism 「ない」の表現


「できない」「しない」のいいわけが日常的に多いかも、なわたしですが、これでも、「できない」はできるだけいわないように、ガマンは一応してます。
でも、それは、それぞれの場所に「駆け込み」メンター的な方がいらっしゃるからこそm(_ _)m
最近は、現実社会、サイバー社会の両方に増えてきました。
気の引き締まる思いです。


さて、前置き長めになりました。
私が「いつか、展開したい」と思う考え方の1つに、社会企業、があります。Social Entrepreneurというもの。でも、あくまで、今までは「いいな」だけ。留学するときに迷いましたが、いわゆる「社会科」を勉強したかった私は、今の道へ。

今まで獲得してきたものを、如何に有用に使うか、私の場合は「社会基盤工学(土木工学)」「社会開発(今勉強していること)」をどう合体させるか、が次の目標になると思います。まさに、「インフラのココロ忘れなかれ」に繋がるのだと思います。
その間に必要な触媒として、もしかしたら取り入れられる考え方かも、まだ「そういえばあったね~」と「興味のあったものリスト」へのお蔵入りにはできないな、と最近、思いました。


という気づきも、やはり、「メンター」のおかげですね。
私の関心のあるものには、全部「社会」がついてました・・・・・こういう偶然のつながりは、多いです。
人生は繋がっているな、と感じる瞬間です。

Wednesday, May 21, 2008

日常と非日常


今は、勉強をし、たまに踊り、散歩し、あとは気ままな生活を送ってます。
なのに、あと10日もしたら、がしがし、昨年の生活に戻ります。

毎日、車と通訳さんとアシスタントさん(アシストされているのか、私がアシスタントだったのか、は問わないでください)で、がんがんヨルダン渓谷(パレスチナ自治区 西岸に位置しています)を、動いてました。何が何だか分からず、ひたすら、ひたすら、でした。

あの馬力が今回、出せるのか甚だ怪しいです。
というより、後がない、繰り返しは不可能、という表現が相応しい「研究のための現地調査」ですから、勢いというか準備が必要です。

今の日常が、長い目で見れば非日常であったことに、ようやく気付き始めたのでした
(._・)ノ


今年の6月もパレスチナ。3年連続、がっつり容赦なしな太陽のなかです。

Monday, May 19, 2008

人あってこそ

どんな局面においても、人がやっぱり大切。

そんなことを考えつつ、きょうは「Capability」という言葉について考えました。
辞書によると「1)能力、才能、2)素質、潜在能力、将来性、3)(物質の)性能」だそうです。
私が注目しているのは、2)です。

開発事業が、どれほど未開の潜在能力に寄与することができるのか、それを持続的に達成するために必要な手法は何なのか、既存の手法は果たして適切であったのか。


食糧危機で、物資供給、資金支援が多く叫ばれる中、FAO事務局長が「モノの支援だけではなく、施設や技術の支援も」と農業分野での開発事業の増強を謳っている。同局長によると、世界のODAにおける農業分野の占める割合が減少しているという。
Agriculture Developmentという冠がついていない事業でも、農業活性化を一部として取り入れている事業は多く、もしそういう事業が含まれていないのかもしれない。それでも、やはり農業セクター支援が減少しているのだと思う(統計的な裏付けまでは手が伸びていませんが・・・)。


私が閲覧しているニュースはほとんど日本のメディア記事ですが、そういった記事から、「相手国に対し」という相手国(の人々)へどのようなアクションを施すのか、というのが時に感じられないことがある。政策が、資金支援が、という恐らく表面に出てくるものに注目され、その政策が、資金が、世界のどこへ流れて・・・・ということまでは言及されていない。
読み手に私のように国際開発にこだわってしまう人がいれば、その人は自分でもっと掘り下げたり、何かアクションを起こしたりすればいいのだろうが(と自戒)、そうでない読み手の多くは、日本は資金支援をする、というところで止まってしまうのだと思う。

政府の掲げた政策や、資金や物資の支援が、相手国の人々へどのような形で届いているのか、人のCapabilityへどのように貢献しているのか(ちょっと無理矢理最初の話題へ戻しました・・・)、現実を広くお伝えすることができればいいな、と思う。
みんながみんな知りたい訳ではないと思うので、詳細は多少省いた方がいいと思うけど。


NGOはそういう点ではかなり進んでいる印象があるが、政府関連だと、どうしても固さがあったり、アクセス等に限界があったりする。あと、よい情報源があっても、他のことの中にうずもれていたり・・・・・

ちょっともったいない
( ̄-  ̄ )

(でもでもひとこと)
ただ、私がたまたま国際開発の分野で生きているから、開発のことを中心に考えていることが多い、つまり偏りが多少なりとも発生していることは注意を要すべきで、他の分野で生きている方々は、同じようなことをご自身の分野で考えているのだろう、と思う。
何事も、考え、意見するにはバランスが必要、ということか。

Friday, May 16, 2008

ひとのもつ威力を発揮させるには・・・?

適切な環境を整えること。

でしょう。
でも、そんなんじゃ、ありきたりです。
もっと具体的な提案をしなければ。提案は、さらに現実的でなければ。


国際開発の分野で、人々が生活を営む上で「豊かさ」「温もり」を実感できるよう、お仕事や研究を通して貢献したいと思います。

今日、Amartya SenのDevelopment As Freedomを(非常に非常に)遅ればせながら手に取りました。
やはり、上のようなことを実現したいと思うならば、人が持つ可能性などについて論じられているものを、もっと積極的に読まねばと思う最近です。
日々、研究や技術、世の中に蓄積されている知識は、拡がり増えています。



(。◇。)



転ばないようにね!

Thursday, May 15, 2008

自己満足からの脱皮

わずかな経験で得たものを、何とか応用させようと頭をひねってみたが、やっぱり所詮は、


自己流


でしかない。今やろうとしていることをDNAレベルで私が持っているかというと、甚だアヤシイ。私が、というより、そんなレベルで持っている人も相当限られているだろう。
ならば、後天的に、積み重ねるべし。ないものは、インプットを。


自己流から脱皮するために、先人たちの蓄積をしっかり取得すべく、今日から数日、研究の基礎をしっかりさせようと思います。知識の取得より、知識を料理するための「微塵切り」「お鍋磨き」「包丁研ぎ」(順不同)を先にすることに、砂上の楼閣の砂埃を立て始めたときに気付きました。





(・∀・)v

Wednesday, May 14, 2008

Linkage

身近なものと遠くのものをちょこっと近づけてみると、どうやら、遠くにあったものは結構身近なものカテゴリーに入るというのが、よく見られる現象のような気がする。

新しい研究分野として、研究としてというよりも、興味によるものだけれども、

どうすると人々の関心が国際協力へ導かれ、その導かれた関心は、どのように(経済的に)途上にある国々の人々の生活や豊かさ(精神的なものも含めて)へ繋がるのか

は面白いトピックだと思う。
でも、心理戦的な要素もあるから、マーケティングとかそういう色合いも入ってくるのかもしれない、こういった事象を調べるのには。

やっぱり開発は面白い。

Sunday, May 11, 2008

たべるもののオモテとウラ

世界的な食糧危機に対して、考えてみる。

食糧を「食べるもの」と訳してみる。
これに対する人々の理解は、非常に多様だと思う。その感覚は、その人たちの取り巻く状況の影響を多かれ少なかれ受けているだろう。

恐らく、日本を含めて、グルメ、という流行の発達している地域では、食べるものは娯楽の1つになりうる。そして、娯楽なので、その総量が減るということ、世間から規制されるということは、あまり人々の意識の中にないのではないかと思う。楽しみは、自分で取捨選択し、その摂取量をコントロールできるものである。
そして、その楽しみが「食文化」を形成し、食の多様化が生まれ、「食べるもの」を必要とする存在が増えるのだ。人間から、動物一般へ。動物を食べるものとして飼育する過程で、人間と同じく、「食べるもの」は消費される。草も、肉も。(そして、一部のニュースで報道されているように、牛が日常的に排出しているメタンガス増加が気温上昇の一因となっている、と環境問題にまで発展し始めている。)
このように、食べるものを摂取することが娯楽になっている地域において、世界の「食糧問題」は、遠いものだと思う。メディアでの喚起以外で、近づけるものの1つとして、「価格」だろう。
「世界的に食糧難だから、せめて、食べきれずに捨てる量を減らすために、購入量を抑えましょう」と思う人、と「食べるものの価格が上がっているから、購入量を抑えざるを得ないなぁ」と思う人、どちらのほうが多いだろうか。

日々の生活において、食べるものを獲得することが非常に重要な地域(どこでも重要であることは自明だけれど、日々の食べるものの獲得に困難を伴う地域のことをここでは指す)では、上のようなことは当てはまらない。そのような地域では、もはや「食べるもの」は、自身が生きる上でのLifelineになる。
そして、選択の余地は、狭められる。食べものを残す、選び取る、という選択肢はない。たとえ、栄養バランスが偏っていても。その栄養バランスの偏りが、人々の寿命のみならず、教育の享受レベルに悪影響を及ぼしていることが証明されていても、だ。


相当対照的な2地域が、世界に横たわっている。
前者が、世界の食糧を選びとって享受している。後者は、違う。

様々な観点からの究明が進められている。
その情報によって得られる解決策は、実際に投入される資源や政策、プロジェクトは、どのようなものになるのだろうか。

そんなことを考えつつ、ネットサーフィンをしてました。自分の研究とは関係ないと思ったり、切り離して考えたりしてはならない、と自分を戒めながら。私は人々の生活に注目しているのだから、直接貢献ができなくても、意識の中に納めておくことで、浮かび上がる何かがあるものだ。

Friday, May 9, 2008

開発という場

人々の生活をどのようによくするか、それが国際開発に参加する人間のミッションの1つだと思う。


では、どのようによくするのか?
そして、「よくする」とはどのようなことなのか?


そんなことが私の研究テーマです。
実際にプロジェクトに入って、ニーズの聞き取り調査をし、プロジェクトを形成するのと、そのよくあるプロセスを、既存研究などを参照しながら、その妥当性、改善の可能性を追及していくのは全く異なる。

少しでも「机上」からはみ出るような結論を以て、プロジェクトへ戻りたい。
そのためには、「生活の質」を、既存の社会の枠組み
(例えば、政府、地方政府、コミュニティ、家族、個人)の中でどのような位置づけにあるのか、吟味する必要がある。
そして、人々の生活に、少しでも「ホッと」できる空間を、開発事業を通して創出できるような働きをしたいものである。


そんなことを考えつつ、世の中は凄まじい勢いで変わっている。
生じてしまったことについて、どのくらい早く即効策を以て対応できるか、機敏さと瞬発力、がやはり開発には必要だと思う昨今。

長期的な視野で考えるべきことと、短期的な視点とパワーを要することのバランス。

Monday, May 5, 2008

「たべる」ものをどうとらえるか


ミャンマーで大型サイクロンが、その隣国タイでは食料難が襲っているというニュース@BBCを、昨日ジムでトレーニングをしながら見ていた。

もはや、どの地域にどのようなリスクが潜んでいる、という限定的なものではなく、世界的に多様なリスクを抱え込んでいるという認識を持たねばならないことを実感する。


どのようにそのような問題に個々の人間が対処できるのだろうか。


ココロで対応できる国際協力と、割り切りをもって対処すべき国際協力の二面性を感じる。
そして、「日々の食」に対してどのように考えればよいのか、現段階において明確なものはない。でも、それは、考え方の切り口のバリエーションが乏しい故ではないかと思う。

切り口のバリエーションを、増やしたい。

Friday, May 2, 2008

平ららかな和とボーダーレス

開発の勉強やそれに纏わる仕事に従事してきたけれども、平和という言葉の重要性を知り、その根底を知らねば、と思いつつ、それへのアクションを怠っていたような気がする。


平和、どんな言葉なのか。
そしてそれはどんな要素から成り立っているのか。
世界に平和が訪れる、それはどんな状態を表わすのか。


頭にぼわっとしたイメージが浮かぶものの、そこまで具体的に整理できてないなぁ。
「もともとの蓄積がない場合は、インプットをしなければならない」とは、恩師の言葉。まさに、それだと思う、この分野。

一方、昨年秋から、社会開発に関する分野をかなり横断的に勉強してきたが、たまに、国境の存在を疑問に感じることがある。
土地を統治するにあたり、国境は必要なもの。しかし、アフリカに見られるように、国境が民族も分けているかといえば、民族が分断されている、あるいは異なる民族が一括りにされて、国境の役割がその地域へ紛争を巻き起こしている場合もある。
そして、グローバル化(これも扱いやすく、扱い難い言葉だ)によって、一国が自前で何でもガンバルのではなく、国境を越えてのやり取り、つまり貿易や交渉、も活発化、というより不可欠なものになり、人の世界移動も多く見られるようになってきた。その一方、国境を超える移動をコントロールをするための法整備も行われている。


世の中には、矛盾に一見見えるものに満ちている。人々の言動もそうだ。
でも、一見矛盾に見えても、根源を探ると、矛盾ではなかったり、矛盾であることを認めなければ先に進めない場合もある。その違いは何か。


恐らく、将来を見据えた、その地域が達成したいゴールではないかと思う。
経済開発の達成、和平の獲得、などなど。

その地域の達成したいプライオリティを自分でつけることの大切さ、それを昨日の試験の最後に書いた。



そんな私も、大学入学後から、数種類のダンスをやってきた。
ダンスはボーダーレスなものだと思う。そして、そこに住まう人達が平和をほんの少しでも感じられるところでは、歌と踊りが存在していると思う。そういう取り組みもいいな、と思う最近。