Sunday, May 11, 2008

たべるもののオモテとウラ

世界的な食糧危機に対して、考えてみる。

食糧を「食べるもの」と訳してみる。
これに対する人々の理解は、非常に多様だと思う。その感覚は、その人たちの取り巻く状況の影響を多かれ少なかれ受けているだろう。

恐らく、日本を含めて、グルメ、という流行の発達している地域では、食べるものは娯楽の1つになりうる。そして、娯楽なので、その総量が減るということ、世間から規制されるということは、あまり人々の意識の中にないのではないかと思う。楽しみは、自分で取捨選択し、その摂取量をコントロールできるものである。
そして、その楽しみが「食文化」を形成し、食の多様化が生まれ、「食べるもの」を必要とする存在が増えるのだ。人間から、動物一般へ。動物を食べるものとして飼育する過程で、人間と同じく、「食べるもの」は消費される。草も、肉も。(そして、一部のニュースで報道されているように、牛が日常的に排出しているメタンガス増加が気温上昇の一因となっている、と環境問題にまで発展し始めている。)
このように、食べるものを摂取することが娯楽になっている地域において、世界の「食糧問題」は、遠いものだと思う。メディアでの喚起以外で、近づけるものの1つとして、「価格」だろう。
「世界的に食糧難だから、せめて、食べきれずに捨てる量を減らすために、購入量を抑えましょう」と思う人、と「食べるものの価格が上がっているから、購入量を抑えざるを得ないなぁ」と思う人、どちらのほうが多いだろうか。

日々の生活において、食べるものを獲得することが非常に重要な地域(どこでも重要であることは自明だけれど、日々の食べるものの獲得に困難を伴う地域のことをここでは指す)では、上のようなことは当てはまらない。そのような地域では、もはや「食べるもの」は、自身が生きる上でのLifelineになる。
そして、選択の余地は、狭められる。食べものを残す、選び取る、という選択肢はない。たとえ、栄養バランスが偏っていても。その栄養バランスの偏りが、人々の寿命のみならず、教育の享受レベルに悪影響を及ぼしていることが証明されていても、だ。


相当対照的な2地域が、世界に横たわっている。
前者が、世界の食糧を選びとって享受している。後者は、違う。

様々な観点からの究明が進められている。
その情報によって得られる解決策は、実際に投入される資源や政策、プロジェクトは、どのようなものになるのだろうか。

そんなことを考えつつ、ネットサーフィンをしてました。自分の研究とは関係ないと思ったり、切り離して考えたりしてはならない、と自分を戒めながら。私は人々の生活に注目しているのだから、直接貢献ができなくても、意識の中に納めておくことで、浮かび上がる何かがあるものだ。

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